Nanka Gifu Kenjinkai


私のアメリカ体験談

「波乱万丈の18年」 井上英治

私がL.A.に来たのは、92年の2月末で早いもので18年になります。来た目的は、ここ Hollywoodで役者をすることにつきます。右も左もわからない来た年は、エキストラで60本ぐらいのあらゆる作品に参加、その後、演技を勉強し役者として出演した映画、メジャーからマイナーなものまで総計40本あまり、舞台もあらゆる大、中、小劇場とシェークスピアからニールサイモン、ミュージカルまで総計これまた40本を越えます。
それに加えて、全米、世界、日本向けなどあわせて20本のコマーシャルなどをこなしL.A.中を駆け回り百戦錬磨の18年間、未だ大きくブレイクする瞬間をまってやまない毎日です。役者一筋のアメリカ生活、私にとってアメリカとは、他人種のアーティストといっしょに何かをつくりあげる工房みたいなものですかね。
さて、渡米前は、岐阜県の商業科の教員をしておりました、最後に勤めたのが岐阜県立大垣商業高校で経営科の2年生を担任、教え子にはタレントの細川茂樹がいます。早いもので彼らも40まぢか、私も年をとるはずです。帰国のさいに時々集まってくれる彼らは、むかしの面影も少しあるものの、とてもたのもしくこちらとしては、それがとてもうれしくもあり、浦島太郎になったような心境になります。
L.A.に来た当初は、”暴動”、”Northridgeの大地震”と波乱万丈で書ききれません。
2010年12月4日

「私の住むサンタマリア」 奥勇

一寸ロスアンゼルスまで離れていますので、県人会イベントへの参加は容易ではないのですが、此処で少しサンタマリアを紹介させて戴きます。
先だって我がサンタマリアの英雄、Cappy Harada 氏が亡くなりました。昨秋の褒章で旭日小授章受章され、この27日にはロスアンゼルスでその授章記念パーテイーが開催される所だったのですが、残念なことでした。彼はマッカーサーに随行して日本へ駐留し、特に戦後日本のプロ野球の復興に尽力された方で、つい最近、”日本のプロ野球をすくった男”という題名で本が出され、表紙のカバーには王貞治氏の巻頭の言葉が寄せられていました。彼は更ににマリリンモンローとジョーデマジオを日本へ案内して一流の野球技術を披露したり、与那嶺要をはじめ多くのアメリカ人プレイヤーを日本へ紹介し、又村上正則氏を始めて大リーガーとして送り込んだりした方でした。彼の果たされた役割がどれだけ、日米の野球交流に寄与し其の距離を狭めることに貢献されたか判りません。私も彼とは生前時々お会いして話をする機会を得ていました。また、当時彼とサンタマリアハイスクールで野球を共にやったという方は未だにご健在です。(其の方も日本のテレビドキュメンタリーで放送されていました。)
此処、サンタマリア、ガウダルーぺ、ニッポモは古くから多くの日本人の入植者が成功されており、戦後暫くは総理大臣が着のみ着のままで立川飛行場から米軍用機でバンデンバーグに着き、日系人会長の南氏の家で身支度を整えて、手土産まで用意されてワシントンへ挨拶に詣でたといいます。又、ミカサを興されたジョージ荒谷氏(リトル東京の荒谷劇場を寄付されたリ日系人のリタイアーメントホームの建設にも尽力された)も当地の方です。他にもファーマーとして、街の興隆に尽くされた方がたくさんおられました。、東京ジャイアンツのキャンプをサンタマリアでやったり、美空ひばりを招いて当地のマーガレットオブライエンとのショーを興行したり華やかな歴史が繰り広げられた所です。(因みにマリリンモンローもサンタマリアハイスクールの出でした。)この前は甲子園球児たちがサンタマリアへ立ち寄って当時のジャイアンツがキャンプを張ったところでくつろいでいきました。(これは私が関与しました。)今、一人の老人とサンタマリアの日系人の歴史を記録に残すことを進めています。
2010年6月26日

「ぼくらはともにに生きてきた安保世代の戦友」
 北岡和義(日本大学国際関係学部・特任教授)

kitaoka
桜が満開である。
校庭に歓声があがった。ぼくの研究室の窓から真正面に富士山が見える。今日は開講式、少し緊張気味の眩しげな新入生が往来している。父母の姿も見える。ここは、静岡県三島市にある日本大学国際関係学部のキャンパスである。3年前、三島大社わきの寿司屋で友人の教授と学部長と酒を飲んだのがきっかけだった。アメリカから帰国して非常勤講師となる。講座は国際文化論と情報論。2年が経過して特任教授として任用された。
アメリカ在住26年11ヶ月。長い、長い、想像をはるかに越えた長い滞在となった米国生活。多人種都市・ロサンゼルスはぼくの第二の故郷である。この間、太平洋を二百数十回越えた。母校・南山大学を巣立つとき、アメリカに住むことなど想像もできなかった。
読売新聞記者となったのが、デラシネ人生の始まりだった。
ジャーナリストであるが故に当然だが、ぼくは事件とともに生きてきた。いつも惨劇の現場、愛と哀しみの舞台にぼくは立ち会っていた。ぼくの半生は昭和から平成に至る同時代史でもあった。社会の中堅として地味に堅実に生きてきた高校や大学の同窓に比べ、ぼくの生き様は突拍子もなく刺激的で非日常性の世界であった。
子供の頃から学校の教師をめざしていた自分が新聞記者という、およそ教員とは対極にあるヤクザな職業に就いた。でも新聞記者の仕事は好奇心旺盛なぼくには想像以上に面白く、実に多彩な人格と接することができた。UCLAメダルを受賞した俳優・三船敏郎に会い、ドジャーズ入りした野茂英雄投手のコメントをとり、さだまさしと深夜まで飲み談笑した。
でも、今は・・・ほぼ半世紀を経て、やっと念願の教壇に立てたという、その感動を泰然たる富士を眺めながら静かに噛み締めている。
ぼくはパールハーバーの日から1週間後、岐阜県恵那郡岩村町の駅長官舎で生まれた。親父はポッポ屋だった。小学3年生で名古屋から四日市に移住し、富田中学を経て四日市高校へ進学した。
同級生には優秀な学友が山ほどいた。ぼくの存在は霞んでしまった。教師になりたかったぼくは南山大学文学部教育学科に入った。時代は60年安保闘争の盛り上りを迎え、列島騒然たる雰囲気である。親友・味岡修の影響を強く受けたのだろう。入学して毎日毎日、デモに出かけた。6月15日夜、大須付近まで行き、デモ解散の直前、東大女学生の虐殺を知った。慄然たる衝撃は今も清冽である。樺美智子さんの死であった。
60年安保闘争こそ戦後史の分水嶺であったと思う。
いま、鳩山政権が揺らいでいる沖縄・普天間の基地移設問題が60年安保を原点としていることはいうまでもない。ぼくらが激しく戦った60年安保闘争から50年経った。冷戦が終わりソ連は消滅したが、アメリカの極東軍事戦略は変わらない。
東京オリンピックに華やぐ1964年、ぼくは読売新聞記者となった。千葉支局に赴任、木更津通信部記者を経て、翌65年7月、北海道支社編集部記者の辞令が出た。津軽海峡を青函連絡船で渡った。この連絡船は後に青函トンネルが開通して廃止となった。
札幌では全日空機羽田沖墜落事故、北海道100年記念式典、日本初の札幌医大・和田心臓移植を取材した。
人間の心臓を取り替えるという神をも怖れぬ医学の進歩に瞠目し、札幌医大病院の会議室に泊り込んでこの世紀のニュースを追った。執刀医・和田寿郎教授宅に上がりこんで高級スコッチ・ジョニ黒をいただき、後日、作家となった渡辺淳一とススキノのバーで角サンを呑みほした。
北海道革新政界の巨星、横路節雄の急逝がぼくの人生をも変えることになった。長男の横路孝弘(後に北海道知事、現衆議院議長)が実父の地盤を受け継ぎ、28歳で衆議院議員選挙に出馬、応援した。
翌70年2月26日、雪の降る夜、横路に懇請された。
「一緒に日本を変えないか」と。
読売記者を退職、国会へ行った。ミイラ取りがミイラになった。
時は70年安保闘争決戦の瞬間が近づいていた。60年安保から10年、革新陣営の戦闘性は風化し、その反動のごとく新左翼は分裂、抗争、暴力に傾斜して行った。沖縄返還協定をめぐる密約を横路代議士が追及、ぼくはプレス対策に奔走し、原稿を書きまくった。
3年余の秘書生活を経てジャーナリズムの世界に戻った。フリーランス・ジャーナリストとして国会や革新自治体、労働界を取材し、毎日毎日、原稿を書いていた。時に要請があると講演旅行に出かけた。
筑紫哲哉の指示でルポを書き、田原総一朗や鎌田慧、本田靖春らに可愛がられた。後日、大宅賞を受賞した猪瀬直樹や佐野眞一、後藤正治ら日本のノンフィクション作家らは未だ無名の青い週刊誌記者だった。神田のバーでよく飲んだ。
1979年渡米、ロサンゼルス現地の邦字新聞の編集部長となった。現地の邦字紙のレベルはお粗末で日本人ジャーナリストとして恥の気分が抜けなかった。
1985年9月から日本語のテレビ・ニュース番組を製作し放送した。ロス疑惑のときはTBSやフジテレビのレポーターとしてマイクを握った。ハリウッドでビデオカメラが捉えたぼくの映像はそのまま生で日本の朝の茶の間に流れた。
1989年1月7日、ロサンゼルスのコンベンション・センターでは新春恒例の国際モーターショーが開かれ、米国トヨタが初めて高級車レクサスを発表した。トヨタの幹部にマイクを差し向けたところで呼び出しのポケベルが鳴った。カメラを止め、公衆電話から東京のフジテレビ国際部を呼び出す。
「今度は間違いない。すぐ取材を開始してくれ。衛星中継する」
緊迫したデスクの声。
昭和天皇崩御の瞬間をこうして迎えた。
「昭和」という戦争と平和と革命の時代が終わった。日本人町・リトルトーキョーで日系人のお婆さんが櫓の柱に貼られた新聞の号外をじっと読んでいた。目を見開いて見つめ、みるみる間に涙が零れた。音もなくスーッと皺の深い頬を伝わった。その悲しみの歴史の瞬間を撮影し、テレビで生中継した。
ロサンゼルスは北米大陸のゲートウエイである。人物往来は激しい。実に多くのセレブ、政治家らにインタビューした。
政治家・小渕恵三、中川昭一、亀井静香。作家・深田祐介、津本陽、宇宙飛行士・毛利衛、向井千秋、プロ野球の王貞治、野茂英雄、映画監督・伊丹十三、山田洋次、俳優・奥田瑛二、歌手・加藤登紀子、アイ・ジョージ、アントニオ古賀、森山良子、ジャーナリスト・本多勝一、岩見隆夫、後藤正治、大蔵官僚・榊原英資、外務谷内正太郎、エコノミスト・竹中平蔵、ジョン・ダワー、エズラ・ヴォーゲル・・・実に多くの多彩な人材に出会い、時代を語り合った。
番組が1000回を越えたところで若い日本人カメラマンに裏切られた。番組に注ぎ込んだ私財も尽き果てた。後はホームレスになるしかない、というところまで追い詰められて帰国を決意した。
気がつけば四半世紀が過ぎ去っていた。いつまで経っても英語は苦手、一向上手くならない。
今は大学の教師となってパワーポイントで講義のレジュメをつくり、アメリカ史や異文化論、現代日本社会の生成過程を講じている。
熱海から南箱根の尾根を駆け上がり、丹那盆地を抜け函南町から三島市へ出る。小学校で習った丹那トンネルの上がぼくの通勤路だ。右手に富士が美しい。
ファッショナブルに着飾ったミニの女学生やだぶだぶのズボンにヒゲ面の学生に向かうとき、ぼくの胸に熱いものがこみ上げてくる。青春真っ只中の彼ら、彼女らのキャンパス・ライフをぼくらの時代と重ね合わせてみる。
青春満開の輝きは変わらないが、それにしても彼ら彼女らの豊かなこと。着ている衣服、持っているバッグは、貧しかったぼくらの学生時代とはまるで違っている。
こうして書いていると半世紀前の青い性、希望に燃えたエネルギッシュな日々が蘇ってくる。伊勢湾の波打ち寄せる防波堤に座り込んで、太宰治や志賀直哉をめぐって惜春の議論を闘わせたなあ。柔道着の汗の臭い、演劇部の立ち稽古、体育祭の仮装行列・・・そして、あの凶暴に荒れ狂った伊勢湾台風。高潮で堤防が決壊し、ぼくらの町は水浸しとなって多くの犠牲者が出た。
そうか。あれから50年という歳月が過ぎ去ったのか。
ロサンゼルスにおける岐阜県人会で多くの有能な人材に出会えた。彼ら彼女らとの交友はまさに同時代史であった。
2010年2月

「私の米国起業体験談」 二村真次
 2008年度新年総会ミニ講演会より(要旨)

1.私の生い立ち
私の父、二村時次は1934年に27歳の若さで日本の陶器を世界に紹介してゆく夢を志し、陶磁器専門の輸出商社を起業致しました。1941年生まれの私は、高校生の頃から父を手伝う事が好きで、外国から陶器を買い付けに来たバイヤーを相手に、ソロバン片手にメーカーの出し値・Shipping Charge・Commissionなどを計算して、最後にドルとかポンドに換算してお客に提示した事をよく覚えています。
2.アメリカに来る事になったいきさつ
名古屋の大学を卒業後、父の会社の主に中近東担当の営業マンとして、イラン、レバノン、シリア等の国々へ一年の半分は出張しておりました。中東戦争の折には、レバノンの首都ベイルートでイスラエル軍の空爆の下で、ほとんど毎晩停電のため、ローソクをともしながら、「まけろ、まからん」と商談した事もありました。1979年、イラン・イラク戦争の勃発と共にイラン貿易が完全にストップしてしまい、当時、三分の一以上を占めていたビジネスが突然無くなったことは、会社にとっては大きな痛手でした。戦争も一向に終わる気配がなく、1981年9月、私は意を決して、商売の新天地を求めてロスアンジェルスにやってきました。
3.この地に移住してからの失敗と成功
輸出商社としてのビジネスはルートの確保の点で難しいことがわかり、ディスカウントストアなどへDinner setや子供用食器などを売り込むホールセールを始めました。しかし直ぐに台湾・韓国・中国等の安い商品の追い上げにあい、更に円高が追い討ちとなり、アメリカ撤退も考えねばならなくなりました。 ここで、一筋の光明となったのが「和食器」でした。80年代前半からの和食ブームによる日本食レストランの開店ラッシュに伴い、業務用和食器の需要が伸びた事から我が社も和食器を取り扱い始めました。時を同じくして Yaohan (Mitsuwa)のロスアンジェルス進出をきっかけに、1987年4月、Yaohan Little Tokyo 店のテナントとして、北米最初の和食器専門小売店「うつわの館」を出店しました。以来、 Yaohanのたて続きの出店に伴い、我が社も常連テナントとして出店を重ねました。1994年にはカナダにも進出して、北米における和陶器専門店「うつわの館」のチェーン展開をすることとなり、ピーク時には、アメリカに12店舗、カナダに7店舗となりました。しかし右肩上がりの成長も、2001年911以後急激に業績悪化し、不採算店の閉鎖、リストラの徹底と縮小路線を歩まねばならなくなりました。
4.これからの展望
NYとカナダにある巨大モール内の2店舗ではアジア人以外の顧客が70%以上を占め、こうしたアメリカ式モール内でも和陶器専門店がある程度通用する事を物語っており、将来の展望に向けて注目しております。もう一つは、ウエヴによるE-コマースの充実です。今年の課題としてスタッフに発破をかけている次第です。 私はアメリカ進出以来、「和食器を通して日本の“和”の文化を世界に紹介する」をコンセプトとして事業を展開してまいりました。アメリカで育った私の次の世代が,「和」のライフスタイルを生活に組み込んでゆく工夫をしながら事業展開をしていく事を目標に掲げて、たくましく頑張っているのを見守っている今日この頃でございます。
2008年1月

「九死に一生を得た人生」 林茂
 第2回ピクニックでの発表より(要旨)

1966年に渡米し、早40年が過ぎた。縁あって二人の息子を含む新たな家庭も授かった。この息子達に郷里である岐阜を伝えたいといった気持ちがいつもこみ上げてくる。亦これまでの人生を振り返ると、ひたすら生き抜いてきた自分の姿があることに気づいた。
最初の受難
渡米後多くの人から学ぶ中で、ビジネスへの意欲がこみ上げた。そんな矢先、黒人街にあったノーム・レストランを買い、黒人相手に24時間営業でソウル・フードを提供した。レストラン成功の秘訣は、その場所の住人に最も適した商品を提供することだ。毎日仕事に明け暮れたが、商売は繁盛した。そんなある夜、仕事を終え現金を持って店を出るや、拳銃を持った2人組に襲われた。懸命になって稼いだお金をそっくり差し出せないとばかりに抵抗した。その瞬間発砲され、2発目の弾丸が腕をかすり胸へと入った。痛みよりも痺れを感じた。出血が激しくなったが、意識はしっかりしていた。程なく警察と救急隊が到着し、病院へ搬送された。病院では救急医が処置を始めたが、まもなくして私にささやいた。“おまえは実にラッキーだ。これだけの弾丸を受ければ即死してもおかしくない” “この強運にあやかってラスベガスへでも一緒に行きたいね” しばらくして私は、何やら言葉に出来ない運命的な、不思議な力を感じた。
病魔と交通事故
6年前、私は大腸がんを患った。以前から体の不調を感じていたので医者にみてもらおうと思っていた。最もその時は健康保険に加入していなかったので、先ずは保険加入とばかりに探したところ、知人の紹介でやっと一件見つかった。保険加入を済ませた翌日、医師の診察を受けたところ大腸がんと診断された。経費だけでも3万ドル以上掛かるところであったが、幸いにも直前の保険加入で僅かな自己負担金で済んだ。これも周りの助けがあってこその強運と感謝した。その後は健康に留意した生活を心がけているところだ。3番目は交通事故だ。店の仕入れで運転中、不注意から停止しているトラックに追突した。追突と同時に後部に積んた荷物が前方に飛び出し、私は胸を思いっきり挟まれた。そのショックでしばらくは意識を失ったが、駆けつけた人達の助けで程なく意識を取り戻し身動きできた。何とか運転して自分の店まで戻ることができたが、あらめて追突した車を見て驚いた。ひどい破損だ。結局、車は廃車となったが、幸いにもさしたるケガは無かった。これまた、九死に一生を得た。3度の体験で学んだ事は、その度に“これで負けてたまるか” といった自身の気力もさることながら、何やら神様から“ お前には未だやることがあるから、もう少し生きとれ!” と言われたことだ。
銃社会のアメリカ
かつて米国では簡単に拳銃が購入でき、私もハンドガンを買い持ち歩いていた。拳銃は麻薬と同じで、習慣になると四六時中身につけていないと不安になる。護身用とは裏腹に犯罪を助長しかねない。最近は銃規制が叫ばれ、私も銃社会の被害者として銃の無い社会を望む。私の身体の中には、今も弾丸が残っている。医者に言わせれば弾丸は殺菌作用もあり強力な筋肉に囲まれているのでそのままでも心配は無いそうだ。しかし弾丸は体内を回っているそうで、いずれ心臓に近くなったら取り出してもらうつもりだ。九死に一生を得たこの地で、これからも最後の最後まで生き抜いていく。体に残ったブレット(弾丸)への挑戦はこれからも続きそうだ。
2008年6月
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