Nanka Gifu Kenjinkai


私と岐阜

郡上踊りに行ってきました / 奥勇

酷暑の八月、日本へ行って来ました。連日38度近く気温が上がり加えて80%を越す蒸し暑さで熱中症の危険と毎日、隣り合わせでした。そんなある日、夕方から郡上へ出かけていきました。最近出来た高速道路のおかげで多治見から1時間弱で郡上に着きました。
お盆の徹夜踊りは過ぎていましたが、この日も尚、境内一杯の人達が夜の更けるのを忘れて踊りを楽しんでいました。400年の時を超えて踊り継がれる郡上踊りは久しぶりでしたが、しばし暑さを忘れて堪能しました。お囃子と闇を突き通すような音頭は、かわさき、春駒、三百、ヤッチク、げんげんばらばら、古調かわさき等々と繰り返され、夜半近くになって、まつさかで打ち上げになりました。終わる頃は一頻りかいた汗も引いて川面を流れてくる風が涼しく頬を撫でていきました。
この日は多治見に嫁いでいた娘夫婦と一緒に行ったのですが、幸運なことに娘の踊りが郡上踊り保存会の方の目に留まり、認定免許状を戴きました。かっては、東濃と西濃と飛騨は交通の便が悪く名古屋へ出る方が早かったのですが、今はどこからでもそれぞれに行くのに高速道路を使って一時間でいけるようになり、由緒ある岐阜県の歴史や文化、名所旧跡を簡単に深訪出来て、更なる魅力を感じることが出来るようになりました。 皆様もどうか機会を造って故郷を訪問してみてください。
2010年9月

私と岐阜 / 伊佐地洋子

岐阜といえば長良川。私の街関市にも長良川が走り、規模は小さいながらも夏期には鵜飼も楽しむ事ができる。長良川も岐阜市にさしかかると濃尾平野を流れる雄大な景観にさま変わりするが、関市はその寸前で小高い山々の間を湾曲しながら流れる。水面の色も様々でエメラルド色に澄んだ妖艶な深みと、清澄に流れる浅瀬、そしてそのグラデーションはいつ見ても美しい。鮎やイワナが泳いでいる姿も橋のたもとから観察できる。関の鵜飼は“小瀬の鵜飼”と呼ばれ、さびれた風流な空間をうみだしている。県外そして海外から友人やお客さんが来られたおりは必ず案内し、喜んでもらっている。
鵜飼は真っ暗になった川面で、薪のあかりがパチパチと音を鳴らし風に遊ばれるなか始まる。紡がれるように何本もの糸を操る鵜匠と鵜の呼吸のやり取りに、見る人は吸い込まれる。いつ見てもとても神聖な儀式に見える。でも実際にこのやり取りを見るのは30分もあるかないか。川上から川下まで決まった場所を流れ降りてくる時間は意外に短く、あっというまに終わってしまう。鵜飼の醍醐味はやはりこの短い川面を流れ下る30分にあるものの、夕暮れから船に乗りこみ仲間と鮎弁当をつつきながら真っ暗になるまでの時間を船上で過ごすのはいつも楽しい。お座敷で鮎定食を頂くというのもあるが、私はお弁当を船の上で食べながら真っ暗になるのをみんなで待つ時間の過ごし方が好きだ。いつも気づくと真っ暗になっていて、川上から薪の明かりをつけた船が降りてくる。鮎の塩焼きのおいしさと、清流長良川。夏になるといつも懐かしくなる。
2010年3月

岐阜で何よりも自慢なのは / 柚原章

私は飛騨高山で生まれ、お越し太鼓の裸祭りの町古川で育ちました。何よりも私の自慢は「方言」だと思います。特に私が生まれ育った飛騨地方の方言は優しい響きがあります。18歳で都会に移り住み、その後ここアメリカのロサンゼルスへ転勤してからその思いが強くなりました。故郷に帰るたび飛騨の言葉を聞くと、とにかくホットさせてくれます。深い山々に囲まれているせいでしょうか、語り口も柔らかく、安心するところがあります。たまに電話で田舎の両親から電話が入り飛騨弁で対応するのですが、何年も飛騨を離れているので、そばで聞いている神奈川県生まれの女房は私の飛騨弁は「本物」ではなく、「もどき」だと言います。そんな私ですが、田舎に帰って、友達や両親の話を聞けば自然と飛騨弁がすらすらと出てくるのは何故でしょうか。ここアメリカにいて数少ない飛騨出身の人たちと飛騨弁で話す時が私の至極の安らぎの時といっても過言ではありません。生まれ故郷を遠く離れ、違った言葉の国で生活している人々にとって自分の故郷の方言は母や父の優しさを思い出させてくれるものなのかもしれません。 “たのむさー”
2010年2月

生涯の恩師との出会い / 奥田(サム)貞沖

1968年、中学2年生の私は多治見市民センターでの英会話クラスに外国人による授業との見出しに誘われ片道45分かけて参加した。当時、田舎では外国人を見かけることなど稀で興味津々で講師を待ち構えていると、サンタクロースのような大きなおなかをかかえたやや小柄の中年男性が現れた。確かに金髪でブルー眼をしていたが、想像したのとは違った。おまけに開口一番、流暢な日本語が飛び出した。今は亡きカックス神父との出会いである。カナダ北東で育ち少々訛りのある英語であったが、全身から温かみの溢れる語り口に私はすっかり魅了された。
早速翌週からは早めに教室に到着し、帰り道も遠回りして神父とバスでの会話も楽しんだ。それでももっと話を聞きたいと、神父の自宅兼用の教会を訪問する事にした。
当時、カックス神父は瑞浪駅近くのカトリック教会に居を構えていた。大正時代の郵便局の建物を安く借り入れたとのことで、中に入ると板張りの洋館と言った雰囲気だ。そこで初めて口にしたアップルパイの味は今でも忘れられない。
高校時代も欠かさず神父の面会に訪れ、そこでの宗教、道徳、哲学と言った話しで話題は尽きなかった。高校3年の夏、その神父が東京の高輪教会に赴任することになり、私は迷わず神父の後を追った。東京では神父の紹介でカトリック寮に入ったが、井上ひさしの"モッキンポット氏の後始末“を地で行く如くに自由奔放な寮風を経験することができた。
こうして学生時代は勿論、社会人になってからも事あるごとに教えを頂いた。その神父が齢78歳近くで引退され故郷での余生を送られた後2004年に昇天された。翌年の秋、私は片道20時間近くかけてお墓参りにでかけた。カナダ東部のノバスコチア州の中でも更に最北東に位置する小さな漁村に眠る神父の故郷で、恩師との岐阜での思い出にしばし慕ることができた。私の岐阜での思い出に、カックス神父は欠かせない人物となった。
2008年1月

ふるさと東白川村を想う / トレーシー田口

私の故郷、加茂郡東白川村は、世界遺産に指定されている合掌造りの大野郡白川村と並んで、岐阜県下に残るだた2つの村となったと聞いた。故郷が昔どおりに、村のまま残っていて欲しいという気持ちと、過疎化して行く村が今後どんどん寂れていって、最後には消滅してしまうのではないかという心配とがあり、故郷を想う気持ちは複雑だ。私が生まれて子供時代を過ごした頃は、村内には 小学校が3つと分校がひとつあり、村営の保育園も3つあったが、今では小学校も保育園も1つづつしかない。また、東白川病院という立派な病院があったのが、今では、病院ではなくて診療所に格下げになったらしい。日本を出て今年で27年目になるが、2年か3年おきに帰省すると、空港はどんどん新しくて最新式の施設を備えてきれいになっていくし、東京や名古屋などの大都市も、どんどん発展している様子なのに、我が東白川村はいつまでたっても変わらない。村を出て他所に住んでいる私にとっては、勝手なもので、村がいつまでも昔のまま変わらずにいてくれることは、うれしいことでもある。しかし村に住む人々のこを考えれば、医療や日常の買い物など、日々必要な大切なことが、不便になっていくのは困るし、村の財政が困窮することによって、村民に経済的負担が出ては困る。また老いていく両親にとって、必要な医療や介護サービスが必要な時に受けられなかったら困るし、公共の交通機関もない村では、車が運転できなくなったらどうなるのか、とても心配だ。
自分にとって、愛する故郷があるということは、とてもありがたいことで、つきなみな言葉ながら、故郷は心のよりどころであり、自分の原点だとしみじみ感じることがある。そしてその故郷のために、何かできることはないかと、このごろ、考えない日はない。
2008年1月

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